漢高祖劉邦は徐州から立身の道を開き、大漢帝国を建立した。その後の400年余りに亙って、徐州は漢王朝代々諸侯の分封地にされ、非常に重要視されていた。両漢文化がここで綿々と流れていて、数万点の漢代文化財は漢代徐州を全面的に描き出した。堂々としている豪快な漢文化は徐州の血脈に深く溶け込み、この町の気質に大きな影響を与えている。
徐州漢文化観光地
「有俑有陵有漢画、有山有水有古刹。(兵馬俑も陵墓も漢画像もあり、山も水も古寺もある)」漢文化観光地には、「漢代三絶」と謳われる漢墓、漢兵馬俑と漢画像石が揃い、徐州における規模が最も大きくて両漢遺風が最も濃厚な漢文化保護基地だとされている。ここでは、世を驚かせる超大型前漢王陵である獅子山楚王陵墓が発掘された。陵墓の構造が精巧で、誠に驚嘆に値する。陵墓から出土した金縷玉衣、玉杯や兵器などは、歴史的価値が非常に高い。従って、ここを1955年中国十大考古発見のトップだと言っても過言ではない。
西安の秦兵馬俑に次ぎ、観光地内の漢兵馬俑はもう一つの重大発見である。四千点以上の漢俑が生き生きとして、水中兵馬俑と共に漢代の発達していた軍事、経済、工芸奇跡と000000文明を語っている。漢画像石展示ホールに模様の夫々に違い、千差万別の漢画像石が陳列されている。これらの石が漢代の政治、経済、社会生活等を如実に記録し、素晴らしい芸術の宝庫をなしている。
亀山漢墓観光地
亀山漢墓は徐州九里区の西端に位置し、よく東方「ピラミッド」と謳われている。ここは漢代第六代楚王の襄王劉注夫婦の合葬墓である。陵墓は山を陵にし、墓道、墓室が全部山を掘って作られたものである。墓室が十五もあり、全部繋がっている。墓内の彫刻がきめ細かく、建築そのものが雄大で巧妙な工夫をされたので、「千古奇観、中華一絶」と称賛されている。
最も奇とすべきなのは、二本の56メートルの墓道である。19メートルも離れているというのに、中心線に並行して掘られたものだが、最大のずれが5ミリしかなく、全世界でも掘られた精度の最も高い通路だと言われている。そして墓室の中に、もう一つの不思議なものがある。それが、『盗墓筆記』の中によく登場する長明灯である。量の限られた灯油でなぜ千年も燃え続けられるのか、その原理は何だろう。26個の封墓石、夫々の重さが六、七トンもあるが、どうやってくっ付けられたのだろう。今になっても、これらの謎はまだ解かれていない。
徐州漢画像石芸術館
漢画像石とは、漢代の人が墓室や祠の壁に刻む装飾用の石刻壁画のこと。その彫刻は素朴で力強く、画風は古拙で精練されていて、非常に高い芸術的な価値があるので、「漢代三絶」の一つとされている。徐州漢画像石芸術館は、その漢画像石を収蔵、陳列、研究する専門の博物館である。
漢画像石芸術館の全体を見ると、三重の院落が廊下で繋がっていて、漢・唐風の建物が驚嘆に値する。館内に漢画像石が1500点以上収蔵されている。これらの画像石は、テーマが豊富で、内容も法令制度、衣食住、神話伝説等に亙って多彩である。精細な彫刻を通じて、千年も前の漢代物質文化、精神文化の高度文明を実感できる。正に石壁上の漢代王朝史詩だと言えよう。
戸部山古民居(戯馬台)
戸部山は徐州の文化要地である。帝王文化、軍事文化、民族文化がここで融合し、徐州2000年の文化蓄積が伝承されている。今より二千年以上前に、西楚覇王項羽が彭城を都にし、演武と閲兵の為に、戸部山の山頂に戯馬台を建てた。山門をくぐり高台に登ると、山房、書院、碑亭、烏騅槽等のスポットを目にし、今でも項羽抜山蓋世の凛々しい姿が見えるような気がする。
明清時代に、戸部山は金持ちの集住地域となり、400軒余りの古民家が残された。これらの古民家は山を背にし、伝統的な四合院がメインで、北部建築物の秩序良く整然とした特徴を持っていながら、南部民家の秀麗さをも失っていない。古建築群を俯瞰するのに、戯馬台上は一番良い場所である。
寄稿者:江蘇観光(日本)ピーアールセンター