東台に行って、海塩に凝らされる千年の文明を感じよう

東台の歴史の中で、海塩文化は最も眩しい一ページである。千年に亙って、その文明はこの土地で無数の遺跡を残した。巍然として聳える鎮海塔、色がまだらの宋城壁に、三相祠で逸話を聞き、天仙園内で仙人との出会いを夢見る。東台に来ると、歴史の響きに耳を傾け、海塩の城独特な気韻を実感することができる。

◎西渓旅行・文化観光地/千年を超える漢代の遺風

古代東台は塩で繁栄した。海に臨む地理的条件が東台の独特な海塩文化を生み出した。春秋から前漢に亙って、賢い東台民衆は既に海水を煮詰めて塩を取り出す作業を始めた。宋代に至ると、東台西渓はもう「天下塩倉」と謳われるようになり、三代の宰相が前後して西渓の塩官を務めたことがある。明・清時代、西渓の製塩産業が頂点に至った。

千年余りの歳月が経ち、世が移り変わり、西渓で無数の遺跡を残した。西渓では、三相祠、泰山佛寺、海春軒塔は今も立派だが、更に幾分風雅と気韻が増した。

雄大な宋韻古城を散策すると、城壁や古道、巍然として立つ楼台に近くに触れられる。西渓書院に行くと、もう読書の明るい声は聞こえないが、晏公の講義をする声は今も響いているような気がする。梨木古街を通ると、青石と青黒色の瓦に残される歴史の温度を実感できる。ゆっくりと前へ進むと、泰山古寺から深い禅意に満ちている鐘や太鼓の音及び僧侶たちの読経声が耳に入ってくる。踵を返して董永七仙女文化園に入ると、千年も伝われる愛情物語に心が打たれる。草市街内の平凡な生活の風味が、旅人に悠長な郷愁と懐かしい故郷の味を思い出させる。

※西渓古城

古代西渓は塩漕運と貿易の中心地であった。千年に亙って、この町が古塩運河の畔で東台海塩文化の誕生と発展を見届けた。そして、西渓古城はその賑やかな古代塩町を再現した。

景観大通りに沿って進むと、西渓城壁に辿り着ける。城門をくぐって、歴史が絵巻のように、目の前に広がってくる。飛檐翹角の三相閣が城門の真正面に聳え立ち、人々を感銘させる三代賢宰の功績を語っている。左側は晏渓書院。真鍮製のノッカーを叩き、朱塗りの玄関を押し開けると、晏公が「無可奈何花落去、似曾相識燕帰来」を吟唱する声が聞こえるような気がする。階段を登って城壁の上に立つと、城楼や古砲は無言のまま、刀剣や槍等も鋭気を治めている。

城楼の中、鼓音が西渓展示ホールから伝わってくる。まるで、天まで届く勢いだ。ふと振り返ると、歴史の車輪がごろごろして走っていく姿が見え、千年の輪廻と変遷が全部このまだら模様の西渓古城に残したような気がしなくてならない。

※海春軒塔

今より1300年余り前、海春軒塔が西渓大地から突き出て、その後千年も佇立して、「江蘇第一古塔」の美称を博した。伝説によると、塔を建造したのは、唐朝の開国元勲である尉遅敬徳だったという。彼の母親が西渓に住んでいるときに、西渓の百姓達が海難に遭うのを見るに堪えなくて、尉遅敬徳に「もし官になったら、必ずここで宝塔を建てて漁民に方向を示してやれ」と言いつけた。尉遅敬徳が慈母の言いつけに従い、この塔を建てた故に、海春軒塔は最初は「孝母塔」と呼ばれた。

海春軒塔は、基礎を作らず直接泥地に建てられたものである。塔身は七重で、八角八面の構造で、しかも各重に夫々に八体の仏像と仏壇がある。あっという間に千年も過ぎて、何回も地震や洪水に襲われたにもかかわらず、古塔はその姿をちっとも変えなかった。建築界の奇跡だと言っても過言ではない。

西渓古城の城壁に登ると、海と空を眺めれているように、遠くない所で聳え立つ海春軒塔の姿が見える。その塔は一人の老人のように西渓の変化を見届き、東台大地の歴史伝承を語っている。

※泰山護国禅寺

泰山護国禅寺はまた泰山寺と呼ばれ、海春軒塔の隣にある。泰山寺は宋代に建立され、千年の歳月を経て、もう当初の姿ではなくなっている。二回も火事に襲われ、泰山寺の建物は焼き尽くされ、仏像だけは崩壊を免れたが、全部北向きとなった。従って、再建する時に、本来南向きの建物を全部北向きにした。

今の泰山古寺は北に向かって据えている。構内に入ると、北から南へ四つの本殿がある。天王殿、東岳殿、地蔵殿が中軸線を沿って建てられている。地蔵殿の後ろの天妃山に建てられる碧霞宮は、回廊に囲まれ、飛檐翹角に飾られ、金や青に輝く本殿を持っている。古寺には、沢山の文化財が残されている。漢代の石刻仏像、隋代の大刀、唐代の方天画戟…その一点一点は皆悠久な歴史と千年に亙る記憶の印である。

※董永七仙女文化園

西渓では、古くから董永と七仙女との愛情を謳歌する神話が伝えられている。玉帝に七人の娘がいるが、ある日、この七人の仙女が人間界に下りて西渓の「鳳凰池」で水と戯れる。偶然、地元の親孝行で有名な董永と出会った。董永は嘗て自分を売ってまで父親の葬式を行おうとしたことがある。このはとっくに一番年下の七仙女の耳に入っていた。彼女はこの温厚な人間に惹きつけられ、人々の心を打つ愛情物語の幕を開けた。董永七仙女文化園はこの伝説に基づいて作られ、西渓特色のある園区である。

園区の中に、董永と七仙女との石刻彫像が一体ある。雪のように真っ白の彫像がまるで生きているかのように迫真である。彫像の左側に、董永の生涯を記録した董孝賢祠があり、中国伝統的な孝悌美徳を唱えている。また、文化園内に、一本の老槐がある。話によると、この老槐の神は董永と七仙女との結婚の立会人だったらしい。その他、文化園内に規模の

違う二十数カ所の観光スポットがあり、この美しい物語との各種の因縁を語っている。

七夕や董永七仙女文化祭になる度に、必ず数多くの若いカップルが文化園にやってくる。彼らは姻縁長廊を通って、鳳凰池の畔を通って、老槐の下で止まって感動的な物語を思い出しながら、心から願いをかける。

◎安豊古鎮/「淮南中十場」の一番

安豊古鎮の歴史は今より1200年前までさかのぼることができる。本来は「東淘」という名だったが、宋代に「安豊」に改名された。安穏な暮らし、豊富で不自由のない生活という意味が含まれている。安豊は製塩業の発展によって繁栄した。清朝に至ると、雲集する商人によって貿易が発達して、安豊には七里もある一本の長い繁華街が形成した。今の安豊古鎮もその中の一部だった。

古い街や路地を歩むと、歴史が琥珀のように、安豊古鎮の青いレンガや瓦に刻まれている。巍然として峙つ鮑氏大院に入って、昔の商人の伝奇的な物語を聞く。二百年も風雨に晒されたとは言え、古拙な建物の豪華さ、贅沢さは消えていない。延々と曲がりくねった路地に、呉家祠堂は詩家の気骨を示している。回廊亭外、伝統劇が上演され、古往今来の感動的な物語を演じている。

歩き疲れると、どっかの面屋さんで一杯の美味しい魚湯面が心を癒してくれる。古い街の奥にある「龍虎斗」草炉焼餅は安豊の最も素朴な民風を表す。千年の石畳み道、昔の儘の午後の時間、南から北へ古鎮を散策すると、心の中から自ずと生活への熱意と落ち着きが生じる。

◎富安古鎮/時間に秘められる秘密

酥児餅、魚湯面、虎埠老街…ここは、千年の文化が伝承される古い街、富安古鎮である。

唐代に、黄海の海辺に新しい陸地ができた。その形状が猛虎のようだから、「虎埠」と名付けられ、製塩所を設けられた。宋代に至ると、范仲淹が范公堤を築き、虎埠地域の漁業、製塩業が一気に発達し、百姓の生活が豊かになったので、「富安」に改名された。明・清時代に、大勢の江南豪商が富安に引っ越してきて、邸宅を建て、店を開き、1.5キロメートルもある「虎埠街」は徐々に形を揃えた。それは即ち今の富安古鎮である。

古鎮の彼方此方に、明清時代の建物が百棟以上点在している。古い民家の建物が富安の変遷の示しであり、富安文明の根でもある。町には一軒のお菓子屋があり、富安酥児餅を売っている。昔清朝の乾隆皇帝に献上するものだと言われている。そして東台魚湯面、最も本場の一杯は絶対に富安にある。

江南古鎮のような精緻や優雅がなく、水郷庭園のような詩的気韻もないが、富安の煉瓦や瓦、青石や古い路地は皆最も濃い生活感が漂っている。

◎東台市博物館/歴史の巻物を開く

東台市博物館は東台5000年の風貌を集中的にアピールする所である。博物館の玄関を押し開けると、歴史の巻物もゆっくりと開き、東台千年の歴史と万種の風流を見せてくれる。新石器時代から民国まで、数千年の歴史文明がここで集まる。館内に各種類の所蔵品、文化財が6000点余りもあり、夫々に自分の物語を語っている。

館内に入ると、序庁中にある赤銅色のリリーフが見える。高さ10メートル、幅6メートル、「海韻塩魂」をテーマとする美しい絵巻のように、東台大地で千年も伝承される海塩文明を表現している。序庁を通ると、「髪繍芸術の郷の庁」に入る。その一本一本の糸が伝統的な工法の価値を表し、東台民衆の無尽蔵の知恵を示している。更に進むと、書画と児童二胡芸術展示ホールに入る。ここでは、何時でも視覚的、聴覚的な盛宴を満喫できる。

階段を登ると、二階と三階は博物館の展示館、海韻塩魂歴史文化展である。展示館には、六つのテーマに分けられ、新石器時代から1944年までの歴史を完璧に表している。ここでは、「塩によって誕生、塩によって繁栄する」町の独特な風情を実感できる。

寄稿者:江蘇観光(日本)ピーアールセンター

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