江西省九江市、廬山の桃源郷を訪れる旅

廬山は昔から多くの中国の文人が必ず訪れる地であった。夏の廬山はさらにいい避暑地である。廬山の滝が流れ落ちるのを見て、廬山の霧雨がもうもうとするのを嘆く。廬山の景色は遥か昔から人々に深い印象を残した。しかし、廬山には美しい景色のほかに、多くの魅力的な物語が伝わっている。

現実の桃源郷

中国人が住まいに対する究極の想像といえば、桃源郷だろう。最初に戻ると、現実の桃源郷の原型は廬山にある可能性が高い。

廬山は、江西省九江市に位置し、北は長江に面し、鄱陽湖を背にしている。陶淵明は彭沢県令(県知事にあたる役職の名称)を辞めた後、廬山のふもとに隠居していたという。彼と一緒に隠居していたのは周続之と劉遺民で、3人は密接に往来していて、「潯陽三隠」と呼ばれている。

廬山は風景が絶佳なので、自然に当時世を避けて隠居する桃源郷となった。晋の咸康の時代、王羲之は江州刺史として赴任し、廬山の金輪峰の下にある玉簾泉の近くに家を建て、生活し、習字し、鵞鳥を飼った。後に屋敷はお寺、つまり帰宗寺に寄付され、残った 「鵞池」や「墨池」は、往時の王右軍の山居の趣を物語っている。

王羲之の後、東晋には廬山の人文基調の確立に並々ならぬ意義を持つ一人の高僧がいた。それが、慧遠法師である。慧遠法師は廬山で数十年間修行し、東林寺を建て、浄土宗を創立し、多くの名士を集め、廬山を当時南方の文化の重鎮にした。

古代の有名なスポット

唐宋時代、廬山は山水を好む文人たちのたまり場だった。得意の絶頂でも、失意になっても、しばらく廬山に旅居し、天地の間で、自然の中で胸臆を開く。その中で、李白は恐らく廬山に対して最も明らかに好きな人であろう。

彼は生涯で廬山を5回訪れ、『望廬山瀑布(廬山の瀑布を望む)』など多くの詩篇を書いた。廬山の秀美は、李白の筆の下でさらに素晴らしい想像力を添えた。

白居易も廬山に庵を結んで短期間住んだことがある。彼は、香炉峰の下に「廬山草堂」を建て、その部屋を立てる記録を攻略と書いた。「春は美しい谷の花があり、夏は石門澗の雲があり、秋は虎渓の月があり、冬は炉峰の雪がある」。白居易が当時住んでいた草堂の旧跡、桃の花を観賞する花径は、彼が後世に残した廬山に関する印となった。

宋の時代になると、欧陽修、蘇軾、陸游なども、相次いで廬山を訪れ、廬山の山水の間を逍遥し、無数の人口に膾炙する詩句を詠んだ。

廬山は文風が全盛で、五老峰の南麓の白鹿洞書院は中国の「四大書院」の筆頭で、宋明理学の中心的な学府である。当時、白鹿洞書院だけで102人の進士を輩出し、状元の数も少なくなかった。

今となって、廬山を見下ろしてみると、目の前に現れた数百棟の風格の異なる万国の建築は、山の色の中に隠れて、まるで避世の町のようだと驚嘆する。ここは「牯嶺(クーリン)」 と呼ばれ、避暑の意味を持つ英単語「クーリング」にちなんで名付けられた。最初に命名した人は、イギリスの宣教師で、中国語名は李徳立である。

1894年、李徳立は廬山に来て、廬山の景色が美しく、気候がよく、特に夏の避暑に適することを気に入って、避暑別荘を建てた。別荘を建てた外国人の中には、もう1人の米国人宣教師がいた。彼には後にノーベル文学賞を受賞したパール・サイデンストリッカー・バック(中国名:賽珍珠)という娘がいた。1922年、賽珍珠が廬山で真の意味での執筆を始めたところも牯嶺(クーリン)だった。後にノーベル文学賞を受賞した『大地』もここで完成させた。

廬山の物語は、一度も終わっていないようだ

中国には名山や大川が少なくないが、廬山のように、語り尽くせない良い物語を秘めているのは依然として少数派である。庵を捨て飛び立った高人も、庵を結んで隠遁した名士も、避暑に遊びに行った人も、廬山には感動的な伝説や物語が残されている。

寄稿者:絶妙な山水_記録しよう

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