武漢のカレーの「島爺爺」

武漢大学のすぐ近く、東湖村の路地に飲食街がある。武漢大学の側門から延びるこの路地には水餃子、フライドチキン、蓋澆飯(ガイジャオファン)(丼もの)などのファストフード店が並ぶ。以前は学生であふれかえっていたこの路地も、コロナ禍の3年で大半がテイクアウトやデリバリーに変わってしまった。そんな中、今でもイートインができる数少ないお店の一つが島田さんのカレー屋だ。

島田孝治さんは年配の日本人だ。中国に来る前には飲食店に勤めたこともなかったというが、武漢理工大学の近くにもう一店舗あり、現在武漢で二店舗のカレー屋を経営している。

「島田さんは厳しい」——店のスタッフたちは口々に言う。この店では玉ねぎ、ジャガイモ、にんじんの切り方から調理手順に至るまで、島田さん謹製の細かなマニュアルがある。島田さんの厳しい監督の下、熟練のスタッフたちが5分間で5㎏もの玉ねぎを均一に刻み、そうして下ごしらえした食材を煮込み担当のスタッフが時間や手順を正確に守りながら煮込んでゆく。

「島爺爺」

しかし客の立場で見れば、島田さんは親切な「島爺爺(ダオイェイェ)(島じい)」だ。客一人一人を常に気にかけ、お皿にご飯だけ残っている客には「追いカレー」を勧め、箸の扱いに困っている客にはスプーンと小皿を持ってきてくれる。その上、毎週店を教室にして日本語を教えており、申し込めば誰でも無料で参加させてくれる。

店の顔なじみの学生、慧琳(フイリン)さんに「島爺爺」について聞いてみると、第一印象は煙草をくわえながら店先でチラシを配っている「イケおじ」だったという。教室に通ううち、まじめに勉強しない学生に面と向かってきつくる島田さんを何度も見た。「昭和の頑固おやじ」と言う彼女だが、その言葉は「島爺爺」への親しみに溢れていた。(追加)

「毎日同じカレーを」

「日本人はみんなカレーを作れる」と島田さんは言う。日本のカレーはインドカレーに比べてマイルドで、とろみが強い。日本にいた頃から中国人留学生との交流が頻繁だった島田さんは、時折彼らに手作りのカレーをふるまった。留学生たちがとても喜んで食べるので、「中国でカレー屋を開いてもやっていけるかも」と思うようになったそうだ。

島田さんが武漢に来たのは2010年。元留学生が武漢でカレー屋を開くというのでその指導に呼ばれたが、教えたことを守らないのでその店はすぐに辞めてしまったそうだ。帰国を考えていた時、別の元留学生に「一緒にカレー屋をやろう」と声をかけられて、「もう一度やってみるか」と武漢に残る決心をしたのだという。

島田さんのカレーには膨大な時間と工夫が詰まっている。数種類の骨を一晩煮込んだガラスープをベースに、決められた食材を決められた分量だけ、決められたタイミングで入れながら、約8時間、毎日同じカレーになるまで煮込む。この「毎日同じ」が難しい。「カレーを作るのは簡単だけど、おいしいカレーを作り続けるのは大変」と島田さんは言う。

カレー屋がオープンしてからもう十数年、「島爺爺」も周囲の大学生の間のちょっとした有名人だ。オープン当初は学生だった常連客ももう大人になり、子供を連れてカレーを食べにやってくる。

「カレーでも食べに行こうか」

外国人が中国でカレー屋を続けてゆくのは並大抵ではない。そもそも中国国籍でないと個人経営の許可が下りない上、中国語が話せない島田さんには事務も代行してくれる中国人(追加)店長が不可欠だ。これまで何人もが店長に就いては辞めていった。経営が安定し始めたのは当時23歳だった丹子(ダンズ)さんが店長補佐に就いてからだ。「その頃多くの応募者を面接したけど、その中で手書きの履歴書を持ってきたのは彼女ただ一人だった。そのまじめさが気に入った。」島田さんは採用の理由について彼女にそう話したそうだ。

しかし丹子さんは当初、いつも職場で苦々しい思いをしていたという。元々のんびり屋で丁寧な性格の彼女は、他のスタッフの仕事の速度についてゆけなかったからだ。そうして二ヶ月が過ぎた頃、それまでの店長が店を辞め、新しい店長を決めることになった。島田さんが選んだのはそんな丹子さんだった。

大学では日本語を専攻し、飲食店で働いた経験も、ましてや経営管理の経験もない。自分に店長は無理だと思っていた丹子さんを、島田さんは全力でサポートした。様々な経営モデルや新メニュー開発に挑戦させ、時間をかけて彼女を一人前の店長に育てあげた。

島田さんはこのカレー屋を「ファミレス感覚」の店にしたいという。近くに住む人たちが、その日の夕飯の献立に悩んだとき「カレーでも食べに行こうか」とサンダルでも履いて来るような気軽な店——。来客数よりも、やってきたお客さん一人一人を十分にもてなすことを大切にするのが島田さんの流儀だ(表現の変更)。

武漢は春の風

「武漢はふるさとの福岡に似てる。」四季がはっきりしていて、夏はとても暑いが冬には雪も降る。経済的にもどちらも港町として発展してきた背景があり、市民は向上心にあふれている。

島田さんは暇ができると電動バイクに乗って方々を廻り、「日本と違うもの」を探す。夏、家々の軒先に並んだ竹の縁台でうちわを扇いで涼を取っている武漢の人たち。漢口の路地に響き渡る麻雀の音。店先で忙しそうに動いている小さな店の主——。そんな生活の何気ない光景が島田さんの興味を引く。

島田さんが武漢を好きな理由を教えてくれた。「なぜかって、たぶんこの街の人情味だろうね。私のように中国語が話せない人間にもみんな温かく接してくれる。でも温かすぎない。春の風みたいだ。」

「一年一年が拾いもの」

島田さんの普段の生活はとても質素だ。取り立てて娯楽もなく最大の趣味は読書。ただ、読書のおかげで、独り身でもほとんど孤独を感じたことはないそうだ。

島田さんには、日本にいた頃から考えていた晩年の計画がある。もうすぐ75歳、その計画より何年も長く生きている。「その一年一年が拾いもの」、幸運だと島田さんは言う。

そんな島田さんも一度だけ感傷的になったことがあった。2022年12月末、島田さんは新型コロナに感染した。回復した島田さんは、丹子さんに自身の死後について静かに胸の内を告げたそうだ。家族同然の「島爺爺」の話に丹子さんは胸を締め付けられ、しばらく声もなく泣いた。

2020年のロックダウン期間、丹子さんは「島爺爺」を武漢江夏区に住む両親に引き合わせ、「島爺爺」もそこで一緒に住むようになった。娘の説得に二人は喜んで「島爺爺」を家族として迎え入れてくれたが、一方の「島爺爺」は「他人に迷惑はかけられない」と、いまだ遠慮がちだという。いつか打ち解けてくれるだろうか——と丹子さんは心配する(表現の変更)が、当の「島爺爺」は今でもそれなりに気ままな日々を過ごせているようだ。

寄稿者:XIAN

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